妙顕寺とは
中老僧(ちゅうろうそう)・天目上人(てんもくしょうにん)が永仁2年(1294年)に開創した寺。

中老僧とは

日蓮聖人が池上本門寺で入滅される弘安5年(1282)10月13日の5日前の10月8日、日蓮聖人は本弟子六人を定めた。
日昭聖人(1221〜1323)、日朗聖人(1245〜1320)、日興聖人(1246〜1333)、日向聖人(1253〜1314)、日頂聖人(1252〜1317)、日持聖人(1250〜没年不詳)の六人で、「六老僧」と呼ばれる。
中老僧は日蓮聖人の本弟子である六老僧に準ずる直弟子の十二人で、「十二中老僧」と呼ばれる。
天目上人は、十二中老僧の一人である。
また、「九老僧」の一人とも呼ばれることがある。

【縁起】

天目上人の俗性は畠山氏、母は宗祖在世中の法難・熱原法難(あつわらほうなん)で知られる熱原神四郎の娘。天目上人は美濃阿闍梨(みのあじゃり)と称し、下野安蘇郡奈良渕村(しもつけあそぐんならぶちむら)で布教していたとき、唐沢城主の佐野家及び家臣の若田部源五郎光盛が帰依して一宇を建立、同上人を開山に仰いだのが妙顕寺の始まり。
永享4年(1423年)6月、ときの将軍足利義教(よしのり)より寺領三百石を寄進され、永正4年(1507年)佐野家の祈願所となった。天正2年(1574年)に火災に遭い全山焼失。慶長7年(1602年)には唐沢城の春日山移築にともない、その鬼門除けとして現在地に移った。
寛政6年(1794年)、再び火災にみまわれ、現存する鐘楼(しょうろう)のみを残して、すべてを焼失した。現在の堂宇(どうう)は安政2年(1855年)の建立になるもの。天目上人は多くの寺を開創したが、延慶元年(1308年)に81歳をもってこの寺で遷化(せんげ)されている。

由緒寺院(ゆいしょじいん)、本山(ほんざん)、貫首(かんじゅ)について

妙顕寺は日蓮宗の由緒寺院、本山の称号で呼ばれ、山号は開本山(かいほんざん)。本山(由緒寺院)の住職を貫首(かんじゅ)と称する。
日蓮宗では日蓮聖人一代の重要な遺跡及び宗門史上顕著な沿革のある寺院を霊跡及び由緒寺院とし、その伝統により大本山または本山の称号を用いている。
身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)は祖山といわれ、日蓮宗の総本山である。その住職を法主(ほっす)という。大本山とは誕生寺(千葉)、清澄寺(千葉)、中山法華経寺(千葉)、北山本門寺(静岡)、池上本門寺(東京)、妙顕寺(京都)、本圀寺(京都)である。

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